ドイツのフリマサイトに初出品 イーベイ・クライネアンツァイゲン
家具のひとつを手放すことになり、ドイツのフリーマーケットサイト『イーベイ・クライネアンツァイゲン(eBay Kleineannzeigen)』で売りに出すことにした。イーベイ(eBay)の姉妹サイトであるイーベイ・クライネアンツァイゲン(「小さな広告」と言う意味・以下イークラと勝手に略)は個人での売り買いができる、日本でいう『ヤフオク!』や『メルカリ』のようなプラットフォームだ。
使い方としては似たようなものだと思うが、『無料(Kostenlos)、簡単(Einfach)、ローカル(Lokal)』がキャッチフレーズのイークラは、商品を都市、地区単位で検索することが前提とされている。ここでは実に様々なものが扱われているが、家具や電化製品など、ちょっと大きめの中古品は送料も高くつくし、売り手も発送するのが手間なため『引き取りのみ対応可(Nur Abholung)』とされていることが多い。だから近場で商品を探し、現地へ出向いて実物を確認、購入する場合は直接そこで支払いを済ませて持ち帰る、という方法がかなり浸透している。
イークラを買い手として利用したことはあったものの、売り手として不用品を販売するのは初めて。結果からいうと、我が家の家具は販売開始から約24時間後、新たな所有者に引き取られていった。
初めてのイークラ出品ということで、見よう見まねで商品広告を作ったのだが、値段を入力するとイークラが『適正価格』を提案してきてくれた。どうやらイークラで取り扱われている同様の商品はもう少し高価格のよう。ということで最初の設定よりも少し値段を上げて登録することにした。フリマサイト初心者にとってこの機能はなかなかありがたい。
商品説明には商品の寸法、『引き取りのみ対応可』と記した。また、商品撮影のためにかなり時間を要したことも付け加えたい。モノ撮りは難しい。試行錯誤の末、購買意欲をそそる雰囲気の良いカタログ風の写真が撮れたとは思うが、もう少し慣れて手際よくできるようになりたい。
ありがたいことに多くの問い合わせがきた。しかし“早い者勝ち”のフリマ界、いちばん最初に連絡をくれた人が一番乗りで見学に来ることになった。約束の時間より45分遅れて到着した恰幅の良いご夫婦、奥さんの方が威勢良く「20ユーロ負けてよ」と言ったが、こちらも『適正価格』を学んだので、「それはできない」と応じる。しかし彼らの本国アフリカでは、こういう売り買いの場で値引きに応じないことはあり得ないという。こちらにとっては連絡もなしに45分遅刻してきて更に値切るなんてあり得ない。
問答の末、結局5ユーロ引きで取引は成立した。声高にやり取りをして喧嘩しているような会話になったが、最後はお互い笑顔でお別れ。商品をのせたワゴン車とご夫婦を爽やかな気持ちで見送り、ふとアフリカを旅し、市場の風を感じたような気になった。
廃村の秘密・ドイツに残る旧ソ連軍の基地跡「フォーゲルザング 」村に隠されたもの
ベルリンの隣の州を気ままに旅する予定だった週末、「旧ソ連の軍事基地跡地がある」と小耳に挟み、好奇心旺盛な我々は自転車で向かうことにした。ソ連軍が自国の外に秘密裏に基地を作っていた、それもベルリンからほど近いブランデンブルク州ツェーデニックに!「廃墟」と「ソ連軍が残したもの」という二つのキーワードに惹かれほとんど思いつきで目指したのだが、これがなかなかのアドベンチャーになった。「鳥の歌(フォーゲルザング Vogelsang)」というおとぎ話のような名前の土地の、森の奥深くにこの基地跡はある。
前日に宿泊していたオラニエンブルクからポピーの乱れ咲く原っぱを横目に幅広のサイクリング用の道を走り、グーグルマップのおおよその位置を頼りに森の中の基地を目指す。森に入ってからは舗装されていない砂だらけの道を自転車を押しながらえっちらおっちら歩き、途中ベリーを摘んで小腹を満たし、さまよいながらけもの道をつたい進むと、ソ連軍が置いていったような朽ちた軍用車の一部分、錆びたバケツやコップなどの日用道具が打ち棄てられている目的地らしきエリアに入った。
いよいよ近づいてきた、と思ったら人影が。一人の男性が何か記念になるものをとでも思ったのか、廃棄されたものを物色して持ち帰ろうとしているところだった(後にも先にもこの人が村で出くわした唯一の人物となった)。その後、動物の骨が散乱する一帯を抜けしばらく行くと、それらしき柵が見えてきた。基地跡だ!
後から知ったのだが、我々が入村した場所はフォーゲルザング駅から向かう道とは真逆の方向からで、基地の最後方に当たるところだったようだ。到着したは良いが見渡すばかり草原で、建物といえば壊れた監視塔のようなものが確認できるのみ。見取り図があるわけでもなく勘を頼りに動くしかないが、あいにく雨が降り始めた。こんな時のために準備していたポンチョを羽織り、木陰で雨宿り。するとそう遠くないところから、「パン、パンッ」という音が立て続けに聞こえてくるではないか。
「も、もしかして銃声?!」森の奥深くに隠された旧ソ連軍の跡地である。マフィアによる取引など犯罪の温床になっていてもおかしくはない。まさにここでいま殺人を犯した極悪人に見つかったら我々も口封じのために殺されるんじゃないだろうか、こんなところに誰も助けになど来てくれない、ヘリコプターが救助に来る頃には時すでに遅しだろう、楽しいはずのサイクリングこんなはずじゃなかった、などと冷えた体に氷水がつたうがごとく思考がめぐり、さっきまでのワクワクなど嘘のように吹っ飛びテンション急下降、無言で震えるヒルシュトオンチーム。
だがしばらく息を潜めていると物音もしなくなり、幸い雨も上がって来たので「さっきのは多分、誰かが何かを壊していた音だろう」と解釈することにし(ポジティブ)、気を取り直して先へ進んだ。ここから先は以下の写真をご覧いただきたい。とにもかくにも360度、どこを見ても廃墟しかない。まさしくゴーストタウン、廃村の風景である。
行き当たりばったりの探検は約2時間程で終了。暗くならないうちに退散しようということで、後ろ髪を引かれながらも草木が鬱蒼と茂る湿った森の中を今度は駅の方角に向かう。道が道として成り立っていない箇所も多く、倒れた木を自転車を担いでまたいだり、なかなかハードだ。
しばらく歩くと線路が見え、タイミングよく一時間に一本のベルリン行きの電車に間に合った。北から到着した満員の車両に愛車を積み込み、50分ほど揺られながら帰路に着いた。ちなみに無人駅のフォーゲルザングでは、乗車したい人はホームに立ち電車に向かって手を振り運転手に気づいてもらわなければならない。今時かなりアナログである。
驚きの事実
さて、帰宅してからフォーゲルザング村について改めて調べたところ、1952年から森の中に建設された兵舎の町には、軍人とその家族を含む15,000もの人が住んでいたらしい。関係者以外の立ち入りは禁止されており、劇場、商店、オフィス、ジム、学校、医療施設があったという。上空からの写真を見ると、その規模の大きさに驚く(我々は一部の地域しか歩いていない)。そしてさらに驚愕すべきことに1959年の初めには、核ミサイルR-5ポベダ12基が装備されていたというのだ。ソビエト軍の記録によると、核ミサイルは1959年8月に撤去されたらしいが、ちょっと背筋が凍るような話だ。
1994年、ロシア軍の撤退にともない軍の町は部分的に取り壊され、以来現在まで廃墟のまま放置されている。所有主はブランデンブルク州となっているが安全は保証できないため、立ち入りは基本的に禁止とのこと。ただし現地は人が入れないようにはなっておらず、言ってみれば野放しの状態。一部には防犯カメラのようなものが設置されていたが、どの程度機能しているのか疑問だ。廃墟を訪れたい人は自己責任でどうぞご自由に、という来るもの拒まず的な匂いがするが、思いつきとはいえよくもまあ丸腰で行ったものである。
ゴーストタウン「フォーゲルザング 」村を訪れる人は後を絶たない様子だが、数年前に撮られた写真などと比べると基地内の建物は相当劣化が進んでいるようだ。また、木々が生い茂っているため立ち入り禁止の柵を立てる必要もないくらい、このまま自然に飲み込まれ同化していってしまうような気さえする。参考までに2012年のデア・シュピーゲル誌オンライン版の記事をば。リンク先のフォトギャラリーの一番最後に2009年に撮られた基地の空中写真がある。圧巻。
「わたしの花も赤い」になるまでの過程・ゼラニウムを育てながら気付いたこと
「隣の花は赤い」や「隣の芝生は青く見える」といった表現は、他人のものがより良く見えて羨ましく思うことの例えだが、おそらく誰しもがこのような諺(ことわざ)を地で行く体験をしていると思う。目に入る他人の所有物に何か説明がつかない感情を抱いてしまい落ち着かないだとか、他人と自分が持つ似通ったものや能力に図らずも優劣をつけてしまう、等々。こういうことはできる限り少ない方がストレスを感じなくて済むが、生きている限り完全に避けることは難しい。
我が家の窓辺に取り付けられたプランターには、しばらくのあいだ花を咲かせないままのゼラニウムが植えられていた。なぜ咲かないのか。それは私が太陽がさんさんと降り注いでいた週に水やりをサボったからである。正確には、花を咲かせようとしていた小さな蕾たちが枯れてしまっていた。
これではいかんと毎日きちんと水やりを遂行することにした。プランターはアルトバウの二重扉の外、バルコネットと呼ばれる柵に引っ掛けてある。水やりをする度に二重扉を開くと必ず目に入るのが、通りを挟んだ斜めお向かいさんのゼラニウムである。斜めお向かいさんのバルコニーには、我が家と同じようなプランターが横に二つ並び、その両方に植えられた二色のゼラニウムが咲き誇っているのだ。遠目にもピンクと赤がまぶしく光る。「羨ましい」「あのように満開に咲かせたい」と窓辺に立つ私の心はざわつくばかりだ。
さて、毎日欠かさず水やりをするようになってから我が家のゼラニウムも健康状態を取り戻した様子で、すくすくと茎も伸び葉も広がり、大きな蕾をつけるようになった。他にもざっと数えて50近い植木たちを抱えているため、毎日の水やりは一仕事だが、手がかかるほど愛着がわくもので、サボっていた頃が嘘のようにゼラニウムを愛でている自分に気づく。数週間が経っただろうか。やがてプランターに植えた全てのゼラニウムが次々に花を咲かせ、見事に満開になった。待ちに待ったその光景を前に、私の心は満ち足りたものとなった。
ある日、斜めお向かいさんのバルコニーにふと目をやった私は目を疑った。そこに咲いていたはずの花が、ゼラニウムの花が、跡形もなかったのである。なんども瞬きしたが、見えるのは緑の葉ばかりで、あれほど咲き乱れていたピンクと赤が全く存在しないのである。いつの間に無くなったのだろう。いつ枯れてしまったのだ?狐につままれたような気になったが、よくよく考えて気が付いた。しばらくの間、私は斜めお向かいさんの花を見ていなかったのである。
見ていなかった!!!これは驚きであった。
あれほど羨ましく、うらめしくすら思いながら観察していたはずの斜めお向かいさんの二色のゼラニウムのことを、私は忘れていたのだ。要するに私は、自分が水をやるべき我が家のゼラニウムだけを見て、他に目をくれていなかったのだ。そのあいだにあれほど憧れていた斜めお向かいさんのゼラニウムたちは枯れていき、いつの間にか我が家のゼラニウムたちの時代が到来していた。予想だにしていなかった展開だったが、花が枯れるのは当然といえば当然のことだ。この日の発見は、ほかを意識せず自分のすべきことに集中していると、気が付いた時には目的を達成できているということであった。
憧れや比較の対象を持つことは良いことである。自分のすべきこと(水やり)をサボっていた私が心を改めたのも、憧れの対象があったからだ。けれど、すべきことに本当に熱中すると他はどうでもよくなってくるものなのだ。そしてその熱中を抜けた先には結果が待っている。それは期待していた結果ではない場合もあるだろうが、少なくともそこまでのプロセスは無駄にはならないはずだ。
「わたしの花も赤い」。斜めお向かいさんは、ひょっとすると今、我が家のゼラニウムを眺めてくれているかもしれない。
菜食について考える・『野菜好き』としてドイツに生きるピアニストのひとりごと
私はここ数年野菜中心の食生活を送っている。なにか一念発起して菜食主義を目指しているわけではないが「別にお肉は毎日食べなくても良いか」と野菜や豆類、魚などを積極的に調理するようにしていたら、それが美味しくて体の調子も良いので自然に摂取量が減っていった感じだ。自宅ではほぼ菜食だが、食事に招かれたり外食する際には肉料理をいただくことに躊躇はしないし、旅先で貴重なジビエに舌鼓を打つ機会もある。こういう『たまに肉や魚を食べる』人をセミ・ベジタリアン、またはフレキシタリアンとカテゴライズするそうだが、自分は言うならばただの『野菜好き』である。
ピュア・ベジタリアンのひとたちとの付き合いが始まったのはドイツに来て数年経った頃だった。当時の私にとって『ベジタリアン』は未知の領域で、そんなひとが実際にいるのか、と物珍しい目で見ていたと思う。ましてや『ヴィーガン』の存在など知る由もなかった。彼らが作ってくれたダルカレー(インドの豆のカレー)や、オーガニックのかぼちゃを皮付きのままスライスしてオーブンで焼いただけのシンプルな料理は驚くほど美味しくて、野菜だけでこんなに食事を楽しめるものなのかと衝撃を受けた。ベジタリアンになったきっかけは?と尋ねたところ、両親が菜食だったので自然とそうなったという人もいれば、思想的な理由を挙げる人もいた。
思えば食卓に肉が並ぶのは当たり前だった。家でも学校でも肉料理はほぼ毎日食べていたように思う。18歳で上京してひとり暮らしを始めてからも同じような食生活を続け、実技試験やリサイタルの前には縁起を担いで必ずと言って良いほどカツを食べていた。ベジタリアンのひとたちに出会う20代後半まで野菜中心の食事が可能だということに気付きもしなかったが、習慣に変化が訪れるとそれが新しい『当たり前』になり、難しいことを考えるまでもなく、体が欲するものとして多くの野菜を食べるようになって現在に至る。
生まれた時から菜食で育ってきた人に肉をすすめても受け付けられないのと同様に、肉が大好きで毎日欠かさず食べたいという人に『ミートフリー・マンデー』を一緒に始めようと誘っても難しいだろう。習慣に変化が訪れるタイミングというのは、何かしらのきっかけで本人が自ら選択を行う時だと思うが、劇的なターニングポイントがあった訳ではないのに私の食生活が徐々に変化したのは、身近にいた人たちの影響が大きい。こんな『野菜好き』として生きる可能性が生まれたのも、ベジタリアン人口の多いドイツ暮らしならではかもしれない。
アメリカ個人旅行の罠・ESTA(エスタ)を申請し忘れ、搭乗手続き締切1分前に認証取得した話
2018年秋のことだ。その日私はベルリン・テーゲル空港のチェックインカウンター前に立ち、少し早めに空港に到着できたことに満足しながら定刻通りに出発予定のシカゴ行き飛行機への搭乗手続きを行おうとしていた。普段よく利用する航空会社だったので、勝手を知った顔をして搭乗券を発行してもらおうとしていた私に、係員の男性が尋ねた。
「ハーヴェンジー ESTA?(エスタはお持ちですか?)」
「・・・ヴァスイスダス?(それなんですか?)」
聞いたことがない単語にキョトンとする私に係員の言葉が追い打ちをかける。
「あなた、ESTAを持っていないなら飛べませんよ」
なんでもアメリカをビザなし観光する際にはESTAという電子渡航認証システム(Electronic System for Travel Authorization: エスタ)の申請が義務化されており、それが認証されていないことには搭乗手続きは行えないという。寝耳に水とはまさにこのことで、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。「とりあえずここに行って訊いてみてください」と親切な係員がメモをくれたので、空港内の別のカウンターへ全速力で駆け息急き切って尋ねるも、そのような手続きサービスは行っていないとのこと。
仕方なくまた全速力で戻りもう一度同じ係員に助けを求めると、エスタはインターネット上で申請できるとのこと。搭乗手続き時間中に認証されるかどうかは分かりかねるがトライしてみては、と言われる。通常は出発の72時間前までには申請を済ましておかなければならないそうだ。
この時点で動悸がかなり激しくなっているが、とにかく情報を、とスマホでエスタのサイトを開き、日本語のページを速読。これならできるかもしれない!と手続きを始めようとした。が、入力項目が多い上、パスポートの証明写真部分のデータアップロードも必要なためスマホ一台では遅々として進みそうにない。「とにかくやってみるから、ちょっとこのスペース使わせてください」とお願いし、キャリーケースからラップトップを取り出し、チェックインカウンターの一角で立ったまま作業を始めた。必死の形相でキーをタッチし続ける私の横を、搭乗券を手にした旅行客たちが談笑しながら次々と通り過ぎる。それを横目に見ながら『この列に加らねば!』と、全神経を指先に集中させ、『必ず間に合う』と心の中で呪文を唱えながらひたすら申請の手続きをすすめる。
スマホで撮ったパスポートの画像データをラップトップに転送し、ファイルをアップロード。申請費用14ドルを支払うためのクレジットカード番号を入力しようとしたところで、係のお姉さんが近寄ってきて
「ヴィア シュリーセン イン フュンフ ミヌーテン(あと5分でチェックインは締め切ります)」
と言うではないか。万事休す。いや、もうすぐ手続きが完了するのであとは認証メールがくるのを待つだけだ。手続き完了。しかし認証までに最大48時間かかると書いてある。ここまで辿り着けたのに、認証まで2日かかるのか?!もはや望みは絶たれた。。待つこと約2分。
諦めかけた瞬間、スマホがブルルと震え、新着メールを知らせた。ESTAからの『渡航許可通知』だった。
「イッヒ ハーベ アイネ ベステーティグング べコメン!!!ベステーティグング べコメン!!!!!!(通知が来た、の意)」
二度叫んだと思う。カウンターを閉めようとしていた係員たちが振り向いて『おお』という表情をしている。興奮しながら通知メールを見せると即対応してくれ、チェックイン締切1分前にして私は無事シカゴ行きの搭乗券を手にすることができたのだった。
こんな時限爆弾処理班の様な仕事をしたことがかつてあっただろうか。危機一髪、寿命も相当縮んだと思う。思い出してもあぶら汗が出る。どうにかこうにか20年ぶりにアメリカの地に足を踏み入れることができたが、空港まで迎えに来てくれたマルコ(日本人・仮名)に開口一番問いただしたのは言うまでもない。「なんで教えてくれへんかったん?」「あーエスタか。ごめん、忘れてたわ」。
旅慣れているから大丈夫だろう、と両者とも過信していたせいで、渡航に関してなんの情報収集・交換もしないままだったのは反省すべきところだ。せっかくのシカゴ滞在が水の泡になるところだった。個人旅行の怖すぎる罠。