「隣の花は赤い」や「隣の芝生は青く見える」といった表現は、他人のものがより良く見えて羨ましく思うことの例えだが、おそらく誰しもがこのような諺(ことわざ)を地で行く体験をしていると思う。目に入る他人の所有物に何か説明がつかない感情を抱いてしまい落ち着かないだとか、他人と自分が持つ似通ったものや能力に図らずも優劣をつけてしまう、等々。こういうことはできる限り少ない方がストレスを感じなくて済むが、生きている限り完全に避けることは難しい。


我が家の窓辺に取り付けられたプランターには、しばらくのあいだ花を咲かせないままのゼラニウムが植えられていた。なぜ咲かないのか。それは私が太陽がさんさんと降り注いでいた週に水やりをサボったからである。正確には、花を咲かせようとしていた小さな蕾たちが枯れてしまっていた。


これではいかんと毎日きちんと水やりを遂行することにした。プランターはアルトバウの二重扉の外、バルコネットと呼ばれる柵に引っ掛けてある。水やりをする度に二重扉を開くと必ず目に入るのが、通りを挟んだ斜めお向かいさんのゼラニウムである。斜めお向かいさんのバルコニーには、我が家と同じようなプランターが横に二つ並び、その両方に植えられた二色のゼラニウムが咲き誇っているのだ。遠目にもピンクと赤がまぶしく光る。「羨ましい」「あのように満開に咲かせたい」と窓辺に立つ私の心はざわつくばかりだ。


さて、毎日欠かさず水やりをするようになってから我が家のゼラニウムも健康状態を取り戻した様子で、すくすくと茎も伸び葉も広がり、大きな蕾をつけるようになった。他にもざっと数えて50近い植木たちを抱えているため、毎日の水やりは一仕事だが、手がかかるほど愛着がわくもので、サボっていた頃が嘘のようにゼラニウムを愛でている自分に気づく。数週間が経っただろうか。やがてプランターに植えた全てのゼラニウムが次々に花を咲かせ、見事に満開になった。待ちに待ったその光景を前に、私の心は満ち足りたものとなった。


ある日、斜めお向かいさんのバルコニーにふと目をやった私は目を疑った。そこに咲いていたはずの花が、ゼラニウムの花が、跡形もなかったのである。なんども瞬きしたが、見えるのは緑の葉ばかりで、あれほど咲き乱れていたピンクと赤が全く存在しないのである。いつの間に無くなったのだろう。いつ枯れてしまったのだ?狐につままれたような気になったが、よくよく考えて気が付いた。しばらくの間、私は斜めお向かいさんの花を見ていなかったのである。


見ていなかった!!!これは驚きであった。
あれほど羨ましく、うらめしくすら思いながら観察していたはずの斜めお向かいさんの二色のゼラニウムのことを、私は忘れていたのだ。要するに私は、自分が水をやるべき我が家のゼラニウムだけを見て、他に目をくれていなかったのだ。そのあいだにあれほど憧れていた斜めお向かいさんのゼラニウムたちは枯れていき、いつの間にか我が家のゼラニウムたちの時代が到来していた。予想だにしていなかった展開だったが、花が枯れるのは当然といえば当然のことだ。この日の発見は、ほかを意識せず自分のすべきことに集中していると、気が付いた時には目的を達成できているということであった。


憧れや比較の対象を持つことは良いことである。自分のすべきこと(水やり)をサボっていた私が心を改めたのも、憧れの対象があったからだ。けれど、すべきことに本当に熱中すると他はどうでもよくなってくるものなのだ。そしてその熱中を抜けた先には結果が待っている。それは期待していた結果ではない場合もあるだろうが、少なくともそこまでのプロセスは無駄にはならないはずだ。

「わたしの花も赤い」。斜めお向かいさんは、ひょっとすると今、我が家のゼラニウムを眺めてくれているかもしれない。


文と写真:萬谷衣里 Eri Mantani プロフィール